H28.2.10
「むごく育てよ」
山岡荘八の小説徳川家康の中に出てくる言葉です。
家康が幼少で竹千代と呼ばれた頃,松平家から隣国の今川義元の所へ,後見人になるという名目で人質に出されました。
義元が家臣から「竹千代殿をどのように育てれば良いでしょうか?」と問われたとき,一言「むごく育てよ」と言ったそうです。
これを聞いた家臣は,「分かりました。それでは厳しく育てます」と答えたのですが,義元は首を横に振り「そうではない。むごく育てよと言ったのだ。金銀を与え,うまいものを食べさせ,早くから美女を与えるのだ」と言ったそうです。
家臣は「そんな贅沢をさせてよろしいのですか」と問い返すと,義元は「幼少から華美飽食させ,女を与え,龍よと虎よともてはやせば,人間などたわいもない役立たずに育つものよ。役立たずに育てば,松平の領地はわしのものじゃ。こわっぱ一人に贅沢させるなど,安いものよ」と笑ったそうです。
しかし,今川家には名軍師雪斎がおり,竹千代の素質の大きさを見抜き,厳しく育てて,後の徳川家康の人間としての骨格を育て上げたのでした。
何故,「むごく育てよ」という言葉が浮かんだかと言えば,清原の問題がきっかけです。
清原は,西武に高卒ルーキーとして入団し,当時の堤オーナーに大変気に入られ,会社役員や政治家も入れないオーナー室にも球団でではなく秘書を通じて招かれていたことや,清原の起用にオーナーが直接球団首脳をしかりつけたなど,特別待遇の扱いを受けていたようです。
若いときから,高級クラブに出入りし,早くから一億円プレーヤーとなりましたが,20代後半になると,成績も下降気味となり,巨人にFA移籍しました。ところが,成績は下がり続け,松井が入団する頃には,巨人でも居場所を失いつつあったようです。
成績が低迷するならば,猛練習するかと思いきや,高級車で高級クラブに乗り付け,遊びほうけていたそうです。
落合はかつて,清原は入団一年目が一番良かった。なぜかだんだんバッティングが悪くなって行くんだよねと言っていたことがありました。暗に,練習不足と言いたかったのかも知れません。
元ヤクルトの監督の野村克也は,「清原の若い頃の監督は誰だ。森か。あいつが清原を厳しく育てなかったのが悪い」と言っておりました。しかし,当時の堤オーナーは天皇のような人でしたから,森さんでも清原を厳しく育てられなかったのかもしれません。